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(2011/9/8) 走行120キロ  (ページ2/9) 1 2 3 4 5  6  7 8 9

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埼玉パワースポット旅行 川越観光

 

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11:24川越氷川神社から南下し、わらべ唄の「とおりゃんせ」の唄発祥の地と言われる三芳野神社に向かう。気温は30℃を超え天気がとても良く太陽の日差しが強く眩しかった。

 11:28川越市立美術館・博物館を通り過ぎた。(写真左上)営業時間は9時〜17時で拝観料は各200円(大学生以下100円。小学生迄無料。)月休。道路を挟んだ先には、100名城で関東7城にも数えられる、川越城本丸御殿(写真上中)があり拝観料は100円。今年の大河ドラマの「江 ゆかりの地」のぼりが立っていた。近くの喜多院に江の長男の徳川秀忠生誕の間がある。城を模した公衆トイレがありお借りする。隣には初雁球場があった。川越駅から離れている為か人通りはまばらだった。 

   三芳野神社

 

創建は807年で社名の由来は伊勢物語に出てくる、「入間の郡三芳野の里」と言う川越の旧地名からつけられたとされる。主祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)・奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)の夫婦の神様で他に菅原道真誉田別命(ホムタワケノミコト)を配祀している。童歌「とおりゃんせ(通りゃんせ)」は三芳野神社の参道が舞台といわれる。

戦国時代の川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれた。城内にあることから一般の参詣ができなくなったが、信仰が篤かったので時間を区切って参詣する事が認められた。しかしお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓跡を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしなければならなかった。参詣に紛れて密偵が城内に入り込む事を防ぐ為、帰りには警備の者に厳しく調べられた。その様子から「いきはよいよい、かえりはこわい」と唄われるようになったと言われている。

住所

埼玉県川越市郭町2-25-11

TEL

 無し

時間

境内自由

駐車

 無料駐車場有り 

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 11:32自然豊かな場所になり大きな看板を見つけ三芳野神社に到着。県の指定文化財の様だ。

 

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境内は広場があり公園になっていた。江戸時代迄は川越城内の天神曲輪の中にあったそうで、四方を土塁と堀に囲まれていたそうで、境内には昔の土塁が残っていた。この点から「お城の天神さま」ともいわれる。

 

 

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 学問の神様の菅原道真をお祀りしていて合格祈願の絵馬が掛けられていた。天神さまとは菅原道真の事で、絵馬は近くの「小峰商店」で販売しているそうだ。

 

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 手水舎があり、まずは右手で柄杓を持ち、水を汲んで左手にかけ左手を清め、次に柄杓を左手に持ち替えて、同じように右手を清める。再び柄杓を右手に持ち、左の手のひらに水を受けて口をすすぐ。口をすすぎ終えたら、もう一度水を左手に流し(少し残す)、最後に残った水で柄杓を立て、柄に水を流してから伏せて置く。

二礼二拍手一礼で参拝する。歴史を感じる拝殿は1624年に川越城藩主酒井忠勝が徳川家光の命を受けて造営された。

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鳥居は南の方にあり、とおりゃんせの唄の発祥の地とされる参道があった。三芳野神社は平安時代建てられ、天神さまとして多くの人に親しまれていたが、戦国時代の川越城築城の際に城の中に取り込まれてしまった。庶民が参拝するには城の中を歩かないと行けないので、行きは良いが帰りは城の警備が厳しく、少しでも怪しいそぶりをすると無事に帰れなくなるかもしれないという恐怖感があったり、庶民の参拝の難しさの様子が歌われたそうだ。

 

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とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこのほそみちじゃ

 

てんじんさまのほそみちじゃ ちょっととおしてくだしゃんせ

 

ごようのないものとおしゃせぬ

 

このこのななつのおいわいにおふだをおさめにまいります

 

いきはよいよいかえりはこわい こわいながらもとおりゃんせ とおりゃんせ

 

七五三のお祝いに天神様にお札を納める様子を歌った説もあり、昔は子供の頃に病気や怪我で死亡する確率が高く、天神さまが7歳前は守ってくれると信じられていて、7、5、3歳を迎える子供と一緒に天神さまに子供の成長を祝う為にお札を納める習慣があり、お札を納めた後は天神さまは守ってくれないので「いきはよいよい かえりはこわい」と唄われたそうだ。

 参道は緩やかな斜面になっている。三芳野神社を出て右に曲がり少し進むと川越城の富士見櫓跡があるので行ってみる。

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 11:40とおりゃんせの唄に出てくる細道を進むと富士見櫓跡の碑があった。ここの前を参拝者は通っていたらしい。隣には川越城田曲輪門跡の碑があった。

 

   川越城(河越城)

 

室町時代に扇谷上杉氏と、古河公方(足利氏)が領地を争っていて、扇谷上杉氏が足利氏の勢力(古河城や関宿城や忍城など)に対抗する為、家宰の太田道真、道灌父子に川越城(河越城)の築城を命じ1457年に築城した。1537年には北条氏綱に城を奪われてしまい北条氏が支配する事に。1546年に河越城奪回をはかる扇谷上杉氏が今川・武田軍と連合し8万の大軍で北条綱成が3000の兵力で守る河越城を包囲し北条氏との決戦に臨む。川越城の北条綱成は半年に及ぶ篭城で抵抗し、援軍に来た北条氏康が8000の兵を率いて夜襲をしかけ、連合軍を撃退し扇谷上杉氏は滅亡した。1590年の豊臣家による小田原征伐では大道寺政繁が守っていたが降伏し、徳川家康が関東を治める事になり、譜代の酒井重忠が川越に封ぜられ川越藩が立藩した。江戸時代になると大老・老中など幕政の重職についた有力譜代大名や、親藩の越前松平家などが入封した。幕府の老中職に就いた大名の数では徳川各藩中、佐倉藩に次いで最多であり、城下町川越は江戸と新河岸川の舟運や川越街道で結ばれ、江戸の北の守りとして発展、「小江戸」と称された。江戸時代が終わり1868年に明治政府に恭順の意を示すため堀を埋める。1869年に城の老朽化を理由に城の部分的取り壊しが始まる。 

 北条綱成は信長の野望のゲームでいつのシリーズもかっこよく物凄く強いが北条家への忠誠が高く中々配下にできない勇将だ。大道寺政繁も川越城城代を努め優れた内政手腕で川越の発展に貢献した。

 

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 川越城には天守閣が無かった為、ここが城の中で一番高い所だった様で、天守閣の代わりになっていたそうだ。昔の記録から縦横15m程の大きさだったらしい。明治維新後、廃城となり堀を埋めたり解体されてしまった。せっかくなので登ってみる。

 

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 登りきると工事中な感じの広場になっていて何もなかった。結構な高台だったが景色も木が邪魔してほとんど見えない。狛犬が描かれた石碑がある位だった。薄暗い場所でカラスの溜まり場になっていてなんか急に怖くなった。後で調べた所、川越市が平成12年から富士見櫓を復元する計画に着手した様で復元の情報を集めていた。

11:44さらに住宅街を南下して次は成田山川越別院に向かってみた。

 

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三芳野神社 とおりゃんせ(通りゃんせ) 富士見櫓跡 埼玉県川越市